猫のゆりかご
誕生後


2008年5月16日(金)

少しは眠ったのだろうか。
うとうととしては目が覚め、を何度も繰り返した長い長い夜が明けた。

6時半 検温。

6時40分
院長の回診。
外出許可をもらう。

9時
一旦マンションに帰り身支度を整え、 産院で作ってもらったおにぎりを一つずつ食べてから病院へ向かう。
泣くのは昨日だけ、と二人で決めたのに、車の中で泣いてしまう。

11時15分
病院到着。担当医F先生による説明を受ける。
F先生は昨日、侑和を産院まで迎えに来て下さった先生。

どんな治療をしても血圧が上がらない。
体に酸素が運ばれない。

最後の手段だという一酸化窒素療法を受けるため、書類にサインする。
その後すぐに治療を始めてもらう。

まだ話の途中だったけれど、侑和に会うよう言われる。

ガウンを着て、手を入念に洗い、消毒液をつけて侑和に会いに行く。


このとき、私は侑和に会うのが怖かった。
すごく嫌な予感がした。
それに、私のバイ菌が侑和に移ってはいけないと思い、怖くて、上記の動作を時間をかけて、入念に入念に行った。


侑和に会う。
保育器に入れられ、何本も何本もチューブを付けられた侑和。
昨日、夫が撮ってきてくれた写真では目を開いていた侑和だけれど、今日は目を開けてくれない。
昨日、夫は侑和が少し手を動かしたと言ったけれど、今日は手を動かしてくれない。

触れるのが怖かった。
触れたら壊れてしまいそうで、なかなか触れられなかった。

やっと触れれても、器具がたくさん付いているため、指で腕や脚をなぞるくらいしかできなかった。
ぷにぷにしていた。
赤ちゃんだった。
私の、私たちの赤ちゃんだった。

「頑張って。」としか言えなかった。

F先生が「抱かれますか?」と聞いてくれた。
「良いんですか?」と聞き返した。
本当に壊れちゃうんじゃないかと思っていたから。
先生が機械の代わりに手で侑和に酸素を送ってくれながら、抱かせてもらった。
初めて、自分の子供を抱いた。かわいい。

F先生が「多分もう長くないと思います。」というようなことを言われた。
人工呼吸器から外して抱いているからだと思い、私が侑和を慌てて保育器の中に戻そうとすると、
「保育器に戻しても、1時間くらいしか生きれないと思います。 それよりはお母さんに抱かれていた方が侑和さんも嬉しいでしょう。」
と言われたので、そのままずっと抱いていた。
夫と抱っこを交代した。

侑和は夫の腕の中で息を引き取った。

最後まで、私は侑和に「頑張って」としか言ってあげれなかった。
あんなに誰よりも頑張っていたのに、もっと頑張るようにとしか言ってあげれなかった。
「よく頑張ったね。偉いね。もう頑張らなくていいよ。」と言ってあげれなかった。
医療スタッフがたくさんいて、少し恥ずかしくて、騒ぐのも悪い気がして、名前を大きな声で呼んであげれなかった。
もっと聞こえるように大きな声で名前を呼んであげれば良かった。
  「ゆうわ」   素敵な素敵な名前なのに。

授乳室のような部屋で待っていると、看護師さんが侑和を連れてきてくれ、お風呂に入れてくれた。
侑和の髪には血の塊のようなものが付いていた。
採血の際止まらなかった血なのか、私の産道を通ってくるときに付いたものなのか、分からないけれど。
お風呂で頭を洗ってあげた。
夫は足の方を洗ってあげた。
お風呂からあがった後、気持ち良かったのか、うんちしてたね。
かわいかった。

おむつは看護師さんがしてくれた。
私は一度も侑和におむつをはかせてあげれなかった。

看護師さんに体を拭いてもらった後、肌着を着せる前、 このときだけ、私は侑和の体を触った。あちこち触った。
このときしか、胸やおちんちんには触れられなかった。

肌着を着せるのも、私ひとりじゃうまく出来なかった。
どれくらいの力で触って良いものか、わからなかった。
袖を通すのに腕を曲げると、折れてしまうんじゃないかと思った。

体重や身長を測ってもらった。
自分で排泄ができなかったため、昨日より随分大きく重くなっていた。

侑和を看護師さんに預け、再度F先生とお話しした。
解剖を勧められた。
原因を解明するため、なにより侑和さん本人のためだと言われた。
解剖後はきれいにして、今日中に家に連れて帰れると言われた。
迷った。

いずれにせよ、解剖前に母たちに侑和を抱いてほしいと思い、 マンションで待ってくれている母に連絡し、タクシーで病院まで来てもらった。


母に電話をするため一旦NICUを出た。
赤ちゃんの泣き声がした。
それを聞いて、突然涙があふれてきた。

そうか、昨日看護師さんが言っていたのはこういうことだったんだ。

やっとわかった。

産院の先生や看護師の間では、侑和はもう助からないという判断だったのだろうか。


F先生とお話している間、看護師さんがもう一度お風呂に入れてくれたらしく、落とし切れていなかった髪の付着物もきれいに取れていた。
頭をずっと撫でて下さっていたそうで、櫛でとかしたように髪が整っていた。
サラサラでツヤツヤだった。

足型をとってもらった。
写真をたくさん撮った。
抱きしめた。
私の体を気遣ってソファーに横になるように言われたので、添い寝もした。

母たちが到着。
姉はNICUには入れず、外で待っていてもらった。
持ってきてもらった肌着と洋服(入院する前に、退院時に夫に持ってきてもらえるように ベビーベッドの上に用意しておいた。)を侑和に着せた。
短肌着とコンビ肌着、妊娠6か月のとき私が一目ぼれして買ったクローバー柄のお洋服を着せた。

母たちが到着するまでの間に、夫婦で解剖をお願いすることに決めていた。
何故、侑和が死ななければならなかったのか、はっきりさせたかったから。
それに、原因が分かることで将来他の子が助かるのであれば、 名付けた通りの子に侑和は育ってくれたのだからと。

でも、母が反対した。
「お願いですから解剖せんといて下さい。」
言いながら、私たちに頭を下げた。

迷った。
そこへF先生が来て、「今日は解剖医がおらず、解剖するのは月曜になる。」と言われた。
死後すぐに行わないとわからなくなる(細胞が死ぬから)部位もあること、 それに今日侑和を家に連れて帰れなくなるとのことだったので、解剖は行わないことにした。


結局、母が強く反対してくれて良かった。
家に連れて帰ってこれたことで、たくさんの時間を侑和と一緒に過ごすことができたから。


連れて帰ってきたことを後悔してはいない。
けれど、いったい原因は何だったのか、それが分からないため、私は一生苦しみ続けると思う。
それでいいとも思う。
私は侑和を助けてあげれなかったのだから。
私は、侑和が苦しんだように、できればそれ以上に苦しみたい。


看護師さんが帽子を手作りしてくれた。
病院の帽子は真っ白でそのままじゃかわいくないからと、看護師さん全員でシールを張ってかわいくしてくれた。
前面のチューリップは、お風呂に入れてくれたり、ずっと抱っこしてくれていたT看護師が作ってくれた。
他のスタッフには不評ということだったけれど、とてもかわいかった。

葬儀屋さんが到着したと言うので、1階へ移動した。
立派な祭壇のある部屋の前には、たくさんの看護師さんたちが居てくれた。
侑和を見送るために、大勢の人が仕事の手を休めて集まってくれたことに感謝した。

夫が駐車場に車を取りに行っている間、F先生が
「抱かせてもらっても良いですか?」
と言って、侑和を抱いてくれた。
嬉しかった。

おくるみがなかった。
侑和を包んであげる、おくるみがなかった。
GWに母が来た際、買ってくれようとしたのを
「産院でもらえるから要らない。」
と断っていた。
買ってもらっておけば良かった。
買わせてあげれば良かった。

もしかしたら必要かもと持ってきていたバスタオルがあったのでそれに包んで皆で車に乗った。
チャイルドシートを取り付けていた後部座席左側に、侑和を抱いて乗った。


つい先日、説明書を見ながら取り付けたチャイルドシートを、 「取り付けたよ!」と嬉しそうに取り付けを報告してくれたチャイルドシートを、 侑和を一度も乗せることなく取り外した夫は、とても辛かったと思う。


途中、コンビニに寄った。
夫も私も朝おにぎりを一つずつ食べただけだったが、食欲はなかった。
けれど、薬を飲むため、パンをかじった。

後部座席に座った私と母と義母で代わりばんこに侑和を抱いて帰った。
「疲れたでしょう?変わりましょうか?」
「いいえ全然大丈夫です。抱いてます。」
と、 侑和はおばあちゃん同士で取り合いになっていた。

帰宅すると、組み立てておいたベビーベッドに侑和を寝かせた。

葬儀屋さんが、ベッドで眠る侑和の周りにドライアイスを置いてくれた。

義父と義弟がマンションに来てくれた。

ミルクを作って飲ませた。
飲ませるふり、赤ちゃんとのごっこ遊びだとわかっていたけれど、嬉しかった。
母乳もあげたかった。
でも、私は出ないと思っていた。

おもちゃを侑和の頭上に並べた。
IKEAで夫が気に入って購入した魚のメリー、カエルのぬいぐるみ、手作りしたクマさんとゾウさんのガラガラ。
本当はもっともっとこれからたくさんおもちゃを作ったり買ったりするはずだった。

侑和が一人で寂しい思いをしなくて済むよう、交代で食事をとった。
姉がよく面倒を見てくれた。
「かわいいなぁ。」と、何度も何度も言ってくれた。

侑和が温かくなってはいけないと思い、抱っこできなった。
触れると壊れてしまうと思い、顔すらあまり触れられなかった。
かわいかった。
この世にこんなにもかわいい愛しいものが存在するなんて、侑和に出会うまで知らなかった。

産院には戻らなかった。
ずっと侑和の傍にいた。

夫が一人、母乳を止める薬(テルロン錠0.5)を産院まで取りに行ってくれた。

16日の夜、侑和が生まれて初めて親子3人同じ部屋で眠った。

2008年5月17日(土)

午前中、産院に診察を受けに行った。
私の経過は良好だった。
院長が
「昨日もう一度カルテを見ながら考えていたけれど、お産の手順に問題はなかった。 なぜこうなったか分からない。」
と言われた。
臍帯血も調べたけれど、生まれる前までは特に異常はなかったと言われた。

こんなことは自分も初めてだと仰った。
胎児に何か問題があったのではないか、と言われた。

私「無痛分娩だったから、私が痛い思いをしなかったから。」
院長「陣痛で苦しくなってお母さんが呼吸できないよりも、 無痛分娩で赤ちゃんに酸素を送ってあげることの方が大事だと思う。」

私の産道が狭かったから。私がちゃんと息めなかったから。私の卵子がおかしかったから。 理由はいくらでも思いついた。
けれど院長は、
「絶対に貴方のせいではないから。」
そう仰った。

ここ(産院)にいる意味が見つからなかったので退院させてもらった。

行き帰り、診察のために何度も通った道、何も変わらない風景が悲しかった。
昨日と今日で私たちの世界は全く違うのに、世間は何も変わらなかった。


午後、 夫は侑和の出生届と死亡届を提出しに市役所へ行った。

夕方、皆に侑和を任せてお葬式に飾る遺影を入れる写真立てを夫と二人で買いに行った。
赤ちゃんなので、白縁のかわいい写真立てを選んだ。

2008年5月18日(日)

一日ずっと侑和と一緒にいた。


午後、夫は家の打ち合わせに行った。
出産日を知っていたスタッフの方々に侑和のことを聞かれただろう。
どんなふうに説明したのか知らない。けれど、辛かったのは間違いない。


侑和は生まれたてなのにもう爪が伸びていたので、爪を切ってあげた。
ちっちゃくて、どの方向からどう切ればいいのか、難しかった。

髪の毛は散髪する必要はなかったけれど、サラサラでかわいくて、夫が後頭部の髪の毛を記念に少し切った。

侑和のために買ったビデオで侑和をいっぱい撮影した。
写真も一番いい画質でいろんな角度からたくさんたくさん撮った。

義父が侑和のために買ってくれた、新居の庭に植えればいいと買ってくれた 石楠花の花(最後の一輪)を持ってきてくれた。

2008年5月19日(月)

家族だけでお葬式をした。

義父は末っ子で決まった宗教はまだなく、私たちも無宗教だったので、お坊さんは呼ばなかった。
お経をあげてもらうことに時間を取られるよりも、侑和を抱っこして過ごす時間を大切にしたいと思った。


あとになって、ちゃんと生まれてきたのにお経をあげてもらわなかったのは可哀想だったかなとも思ったけれど、 すぐに、人にどう言われようとうちはうちだから、と思い直した。
お経を読んでもらっている間静かに神妙にしているよりも、 侑和を皆で抱っこして笑って過ごす時間の方が私たちには重要に思えた。


朝9時に葬儀屋さんが来るというので、早起きしてその時間まで侑和と遊んだ。
侑和を連れて帰ってきてから、侑和を動かしちゃいけないと思って、ずっとベッドに寝かせたままだった。
だけど、本当に最後なんだ、と、侑和をいっぱい抱っこした。
侑和のために買った抱っこひもで、侑和を横抱っこした。
ゆらゆら揺れながらあやしてみた。
首が据わってなくて、怖くて、抱き方もへたくそで、母と代わった。

侑和のおじいちゃん、おばあちゃん、おばちゃん、おじちゃん、皆みんな侑和のことを抱っこしてくれた。
かわいいねと皆で笑いながら泣いた。

9時
葬儀屋さんがやってきた。
「きれいにしてあげましょう。」と頭を洗わせてくれた。

棺には 魚のメリー、義弟が買ってくれたぬいぐるみ、手作りしたクマさんのガラガラ、 夫の分身であるじょうろう、お菓子、粉ミルク、石楠花の花も入れてあげた。
母が持ってきた私が着ていたという新生児服や、義母が買ってくれた洋服も入れてあげた。

棺を閉めた後、もう一度開けてもらった。侑和の顔をよくよく見た。

普通は霊柩車に乗せなければいけないそうだけれど、特別に自家用車に侑和の棺を乗せてもらった。
火葬場へ向かう道は込んでいた。
一生着かなければいい、そう思った。

火葬場へ着いてもう一度棺の中の侑和にお別れを言った。

1時間程、侑和が火葬されるのを待った。


侑和が生まれる前の日までは雨や曇りの日ばかりだったのに、 侑和が生まれた15日からはずっと晴れだった。
今朝は今にも雨が降り出しそうな空だったのに、晴れ間が見えてきた。
侑和はきっと晴れが好きなんだね。
侑和がお空へ行って晴らせてくれたんだね。
姉とそう話した。


火葬が終わり、皆で侑和の骨を拾った。
小さな骨壷に、侑和は全部納まった。
粉々になった、骨かどうかも分からないようなのも拾って入れた。
斎場の人は骨ではないと言ったけれど、もし侑和だったら大変だから。
侑和は全部全部、連れて帰らなくてはいけないから。

軽くなった侑和を抱いてマンションへ戻った。
皆で出前のお寿司を食べた。
いつもと同じお寿司だったけれど、ちっとも美味しくなかった。
悲しかった。

日曜に帰る予定を今日まで延ばしてくれていた姉を駅まで送って行った。
小さく小さくなった侑和も一緒に連れて行き、一緒に姉を見送った。

2008年5月20日(火)

養育医療制度の申請に保健所へ行った。

対象の赤ちゃんは
1.出生時の体重が2,000g以下の場合
2.生活力が特に薄弱で特定の症状がある場合

東京や千葉では1の低出生体重児にしか養育医療券は交付されないが、 私の住む埼玉では交付される可能性が高いと病院で教わった。

その通り、問題なく交付されるような対応だった。


交付されない県の考えはおかしいと思う。
だって、生まれたのに。
小さく生まれたって大きく生まれたって、力がなければ生きていけるように皆が支えてあげるべきなのに。

侑和が生きてくれるのならいくらだって支払う。
けれど、 この子はこの国にとって要らない存在ってこと?
交付されなければそう思ってしまったと思う。

2008年5月21日(水)

早期退院をしたため、産院にて診察。
異常なし。

今日は侑和のお七夜をする予定だった。

2008年5月30日(金)

母乳を止める薬(テルロン錠0.5)を飲み終わってから4日目の朝、胸が張ってきた。
おっぱいが出た。
薬を産院へ夫に取りに行ってもらった。

2008年5月31日(土)

おっぱいの絞り方なんて教わるはずもなく、ネットで検索した方法で絞って侑和にお供えをした。
2時間頑張って、哺乳瓶に入れれたのはほんの5ml程だったけれど、あげた。

2008年6月1日(日)

昨日よりもっと少なかったけれど、おっぱいを絞ってあげた。

2008年6月8日(日)

3週間以上居てくれた母が帰った。

その間ずっと、料理や掃除、洗濯をしてくれていた。
母に八つ当たりする私の面倒もよく見てくれた。
毎日侑和の祭壇の灯を絶やさずにいてくれた。

2008年6月13日(金)

少量で、色も薄く黄色っぽくなってきていた悪露がまた赤くなった。

2008年6月14日(土)

すごい量の悪露が出てきてびっくりした。
母乳もまた出てきた。
もう必要ないのに。

一旦少なくなった悪露がまた出てくるなんて、どの本にも載っていなかった。

夫に産院に薬を取りに行ってもらった。

2008年6月15日(日)

侑和の1ヶ月目のお誕生日祝いをした。
ごちそうを食べて、スパークリングワインを飲んだ。
侑和にも、赤ちゃんだけれど少しお供えして、家族3人で飲んだ。

2008年6月24日(火)

Cが侑和にお菓子を送ってきてくれた。
嬉しかった。

2008年6月25日(水)

私ひとりだけの1ヶ月後検診。
付いてきてくれた夫と一緒に再度、分娩時の様子を院長先生に聞いた。

この日までに、退院時にコピーしてもらっておいたカルテを見ながら 分からない用語を毎日ネットで調べた。
同じようになった赤ちゃんがいなかったか検索した。
思いつく限りの原因を調べた。


「赤ちゃんを取り上げた後いつもガーゼで顔を拭いて鼻と口から羊水等を吸引後、看護師へ渡す。 ほかの赤ちゃんのときと同じようにした。 ぐたっとはしてたけど泣いたから私もほっとした。」
「それですぐあなたの会陰縫合に移った。」
「臍帯血で調べたおなかの中の状態では、胎児仮死ではなかった。」

帝王切開にしていれば、、、との私の質問に、院長は
「あなたの場合、帝王切開にはしなかった。」
と仰った。
何度同じ質問をしても、そう仰った。

時間の経過に沿って説明してもらった。
11時台からバリアビリティー(赤ちゃんの心拍の波)が消失し、 心配したがこれだけでは切開しない。 この状況で、心拍が低下する時もあったならした。
12時台 
また波が出てきたので安心。
13時50分ごろから心拍低下。
首にへその緒が巻いていると良くあることだが少し心配になり、子宮口が全開になる前に吸引。


「気の毒だとは思うけれど、胸は痛まない。 あなたの場合、ああすれば良かった等思わないから。」
「何らかの適応障害があったのではないか。」

「次の子はいつ作ってもいいです。」と言われた。

「その時はまたこちらにお世話になってもいいですか。」
夫が聞いた。
「ぜひ。そういう子のほうがやりがいを感じます。」
院長が答えた。


私は何も言えなかった。
まだ、次の子のことなんて考えられなかった。



侑和の直接死因は播種性血管内凝固(はしゅせいけっかんないぎょうこ)とされた。
その原因としては、帽状腱膜下血種・頭蓋内出血による大量出血とされた。
その他に心不全、消化管出血、肺出血、高カリウム血症、血圧低下、新生児けいれんを起こしていた。

私は侑和の死因について、適応障害があったためだとは思わない。
帽状腱膜下血種は主に吸引分娩に合併するらしく、通常は脳への影響はないそうだ。
でも、侑和の場合は通常ではなかった。
私の産道が狭かったから私がうまくいきめなかったからうまくいきめなくて吸引分娩になったから。 だと思う。

吸引の方法がまずかったと医者のせいにすることもできるかもしれない。
でもその前に、私がうまくいきめなかったから、産道が狭かったから。
あの産院で産みたいと思った私が悪いのだと思う。
誰に何度違うと言われようと、そう思ってしまう。
私がすべて悪いのだ。私が侑和を殺してしまったんだ。

そう思いつつも、誰かにそう咎められるのが怖くて誰とも会えなかった。
誰とも話したくなかった。

2008年7月3日(木)

侑和の四十九日を実家近くにあるお寺で場所を借り、夫と義父母弟の家族5人だけで行った。

お葬式にお坊さんは呼ばなかったけれど、四十九日はした方が良いのではないか、と義父が言ってくれた。
今日は侑和が生まれてから何日目、お空に帰ってから何日目、と毎日毎日数えていたけれど、 四十九日の法要のことは義父に言われるまで思いつかなかった。

無宗教なのでどちらでも良いと思っていたけれど、義父がやろうと言ってくれるのであればやりたいと思った。
義父の気持ちを大切にしたい、そう思った。

将来、義父が自分のときにお世話になろうと思っているというお寺にお願いした。


侑和は親孝行な良い子だ。
なのに、 仏教では三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに逢うという。
侑和は親孝行な良い子だ。
私のおなかの中ですくすくと成長し、母や姉の前でも元気に動き回り、皆に幸せを与えてくれた。

侑和が生まれた瞬間は私の人生の中で一番嬉しかったときであり、 夫にとってももちろんそうであったと思う。

NICUに運ばれてからも、侑和は私たちの期待に答えようと、 痛くてつらい治療に耐え、翌日私たちが会いに行くまで待っていてくれた。
もたもたしている私を待っていてくれた。

世界で一番大切なものが何かを教えてくれた侑和。
私たち夫婦を家族にしてくれた侑和。
こんなに親孝行な子は他にいない。

侑和が死んじゃったのは、侑和のせいではなく、私のせいなのだから、 侑和が三途の川を渡れないはずがない。

もうとっくに天国のお花畑で楽しく暮らしていると思う。

でも、もし何かの間違いで鬼のいじめに会っているとしたら、 どうかお地蔵様、どうか侑和を助けてやって下さい。

侑和は本当に良い子です。
私たちは侑和に出会えて本当に幸せです。
罰を下すなら、どうか私にして下さい。
侑和は全く悪くないのです。
なのでお地蔵様、どうぞ侑和を鬼から守ってやって下さい。
お願いします。

2008年7月10日(木)

侑和が亡くなってから、家の電話はいつも留守電にしていた。
けれど、この日かかってきたうちの1本の電話だけは、何となく受話器を取ってみる気になった。
NICUのH師長からだった。

最初「お母さんですか?」と言われ、 「違います。」と言ってしまった。
でもすぐに気づき、「あ、いえ、そうです。」と答えた。
そうだ。私、侑和のお母さんなんだ。 お母さんになったんだ。

「四十九日が終わったころだと思って。どうなさっていますか。」
「まだ、外に出るのが怖くて、、、」正直に言った。
泣いてしまってうまく話せなかったけれど。

久々に家族以外と侑和のことを話した。
明日、F先生にお話を伺いに行く約束があることを伝えると、
「私も明日お会いしてもいいですか。お会いしたいです。写真見せて下さい。」
「私たちは(侑和君が頑張ってたこと)知ってますから。」と言って下さった。
嬉しかった。

電話をもらえて嬉しかった。
侑和が私に受話器を取らせてくれたんだと思った。

この日かかってきた他の電話はすべて、私には用のない電話だった。

2008年7月11日(金)

6/25に産院に1ヶ月検診に行った。
その際院長先生から 「おなかの中では生きれても外界では生きれない、先天異常があったのではないか。」 と言われた。
「貴方のせいではない。」と仰って下さった。
でも、「私のせいでもない。」と。

じゃあ、誰のせい?
侑和のせいでは絶対にない。
先天異常だったとしたら、異常に気づいてあげられなかった、丈夫に生んであげられなかった私のせい。
やっぱり私のせいだ、そう思っていた。


侑和が亡くなった本当の原因を知りたくて知りたくて、 産院だけでは納得できなかったから、NICUの先生にもう一度聞いてみたい、 そう思い今日お忙しい中F先生にお時間を取ってもらった。

結局、原因についてはよく分からなかった。
吸引分娩しなければ侑和は死ぬことはなかったのでは、と私は思う。
吸引が頭蓋内での出血を引き起こし、身体の全ての機能に影響を及ぼしたのでは、と。
でも、F先生には「わからない。」としか答えてもらえなかった。

ネットで調べてきたDIC(播種性血管内凝固症候群)になる原因(敗血症、白血病、血友病、感染症等々)について聞いてみたが、
「詳しい検査をする前に悪くなってしまった(死んでしまった)のでわからない。」
と言われた。

先生の立場はよくわかった。

「また、聞きたいことがあればいつでも来て下さい。」
と仰って下さった。

昨夜、夫婦で選んで持ってきた侑和の写真を見てもらった。
写真を見ながらH師長が泣いて下さった。
私たち家族のことをよく覚えていて下さった。
嬉しかった。
侑和を一緒にお風呂に入れてくれたT看護師も仕事を少し抜けて見に来てくれた。

侑和のことを知っていてくれる人と話せて嬉しかった。

F先生が写真を見て、
「こんな表情の侑和さんなら、また戻ってきてくれますよ。」
そう言ってくれた。

夫が書いたNICUのスッタフ宛のお礼の手紙を渡して、退室した後もしばらく、侑和が居た部屋を見ていた。
あのへんのベッドだったよね、って二人で。
生きている侑和を最初で最後に抱っこした場所。
親子三人で初めて記念写真を撮った場所。


侑和はNICUに運ばれ治療を受けると、産院に居たときよりも少し良くなったそうだ。
自分で呼吸はできていなかったけれど、人工呼吸器の強さを少し下げれたらしい。
目も開いたし、手足を動かすこともできたそうだ。

でも、何をしてもやっぱりそれ以上は良くならなくて、どんどん細胞が壊れ 大量出血して血が止まらなくてもう治療方法がなくなって、それで先生が私たちに抱っこさせてくれた。

ごめんね。
お母さん全然痛くなかったのに、侑和にばっかり痛い思いさせてごめんね。
辛いの代わってあげれなくてごめんね。ごめんね。ごめんなさい。


もう一度NICUで説明を受けたいと私が言ったとき、最初、
「先生たちには今NICUにいる他の子の治療に専念してほしいから、行かなくていいんじゃないか。」
と答えた夫も帰り際、
「来て良かった。先生に会うんじゃなくてもここにはまた来よう。 侑和との思い出がある場所だから。来ようって言ってくれてありがとう。」
私にそう言ってくれた。

帰りの空は晴れていて、少し雲が出ており、それは犬と遊ぶ天使のように見えた。
実家で飼っていて5年前に亡くなった犬のゆうたと侑和が遊んでいるんだと思った。
きれいな空だった。

2008年7月12日(土)

夫の友人Kが家族で侑和に会いに来てくれた。
「Kにだいぶ遅れちゃったけど、おれもお父さんになれたよ。」
夫が言った。
夫の想い、Kにちゃんと伝わっただろうか。

2008年7月13日(日)

夫と、侑和を連れて三人で初めての家族旅行に行った。
戸田温泉へ行った。

まだ暗いうちに家を出発。
途中富士山が見えた。
てっぺんから裾野まで、本当にきれいに見えた。
同じ道を何度も通ったことのある夫だけれど、
「こんなにきれいに見えたのは俺も初めて。」
そう言った。

「侑和くんが見せてくれたんだね。ありがとう。」
二人で侑和にお礼を言った。

先に下田まで下ってから、海岸沿いを戸田へ向かった。
そうすれば、私と侑和が座っている助手席側が海沿いになるから、と夫が考えてくれた。

下田港から石廊崎へ行き、何となく恋人岬に立ち寄った。
お地蔵様がいらっしゃった。
京都の鈴虫寺のお地蔵様の分身だそうで、草履を履いていらっしゃった。
普通お地蔵様は裸足だけれど、このお地蔵様は我々のところまで願いを叶えに歩いてきて下さるのだそうだ。
お地蔵様に、夫と二人で侑和のことをお願いした。
寄って良かった。

戸田についてからホテルのチェックインまでまだ時間があったので、 海水浴場の辺りを散歩した。
鶯がきれいな声で鳴いていた。

旅館の最上階にある露天風呂は一日交代で男女が入れ替わる為、 昼寝する夫を残し、侑和と二人で浸かりに行った。

空と太陽が反射する海がとてもきれいだった。
侑和ときれいなモノを一緒に見れて嬉しかった。

雲をずっと見ていると、また天使と犬が現れた。
この間見た雲は天使とそのあとを追いかける犬のようだったけれど、 今日は天使は寝転んで頬杖をついて、犬と向かい合っていた。
また侑和に会えたようで嬉しかった。

夕食の後、近くの旅館が共同で主催しているらしい漁火ツアーに連れて行ってもらった。
船に乗ってイカ釣り漁船の周りを何周かしたけれど、イカを釣るところは残念ながら見られなかった。

でも、その後連れて行ってもらった川で平家ホタルに会えた。
ホタルは私たちのところに、侑和に挨拶に来てくれた。

分かるんだね、ホタルには。侑和がここに居ること。
侑和とお友達になってあげてね。
そう伝えた。

翌日チェックアウト後、海岸へ行った。
水着にはならずに松の木の下にシートを敷いて、三人でのんびりした。
侑和に、海はしょっぱいんだよ、って教えてあげた。


「侑和の弟か妹がほしい。」夫にそう伝えた。
今まで夫の気持ちに気付いていながら、私自身もそう思っていながら、言い出せなかった言葉。
こんなことを思ったら、侑和が怒るんじゃないかと思っていた。

でも、侑和に、生まれ変わってまた私たちのところに戻ってきてほしい。 二人目の子は侑和じゃないってわかってるけどでも、生まれ変わりが本当にあるのだとしたら、 また私たちの子として生まれてきてほしい。
夫にそう話した。

3時間程海辺で過ごした。

帰りは山中湖に立ち寄った。
湖はしょっぱくないんだよ、って侑和に教えてあげた。
海みたいに大きいけど海じゃないんだよ、って。

今日も富士山がきれいに見えた。
気温も高いし見えないだろうと思っていたからビックリした。
見せてくれてありがとう、侑和。

高速の八王子辺りで大雨になった。
前が見えないほど激しい雨で怖かった。
いたずらっ子な侑和め☆

お天気が良いのも悪いのも全部侑和の仕業だと思った。
お天気は侑和の気持ちを表しているんだとそう思った。

侑和が泣いているのかな?いたずらして降らせてるだけかな?
そう思うと、今まで嫌いだった雨の日も嫌いではなくなった。

私たちと侑和はいつも一緒。

2008年7月15日(火)

住宅ローン手続きのため、住民票を引っ越し先に移した。
転出書をもらう前に、家族の個人票を取った。
侑和は引っ越し先には連れて行けない。
でもそれは紙の上だけの話。

私たちと侑和はいつも一緒。

今日は侑和の生後2か月のお誕生日。
侑和のためにレモンケーキを焼いた。

2008年7月18日(金)

朝起きて、侑和が居なくて寂しくて泣いた。
妊娠する前、赤ちゃんできないかもと思っていたときにはこんな悲しみ知らずに済んだのに。

「赤ちゃんできないほうが良かった?」夫に聞かれた。
「侑和に会えて良かった。」
「そうだよね。」
「うん。」

生まれてきてくれてありがとう。


2008年7月20日(日)

探しに探し回ってやっと気に入ったお仏壇が見つかったのですぐに注文した。


2008年7月26日(土)

家引渡しの日。

携わって下さったスタッフの方々が来て下さった。
出産後初めて会う方もいた。
誰も侑和のことには触れなかった。

私たちも話さなかった。


2008年7月29日(火)

マンションで過ごす最後の日。
片付けはちっとも終わっていなかったけれど、 おなかの中の侑和と一緒に歩いた道、上った歩道橋に行ってみた。

ここからたくさんのものを見たね。信号って上から見るとこんななんだね。 あっちがマンションだね。
胸の侑和とたくさん話をした。


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